ファイティング・ニモ(2004年)

  • 2016.08.05 Friday
  • 03:01

 

2004.03.03 【ファイティング・ニモ (前編)】

 この世界が有限のものであるならば、自らに科された限界もまた必然のものだろう。
 しかし、もし世界が無限のものであるとしたら――

「パパ? ねえパパ、どうしたの」
「ん。ああ、いや。すまんな、ニモ。ちょっと考え事をしていた」

 

 眩しい太陽が、澄んだ海中をあまねく照らしていた。のんびり揺れる水面を写し取った光彩が豊かな珊瑚の森に揺れる。

 

 暖かな南の海、珊瑚礁。そこは海洋生物たちの命あふれる世界だった。ニモとその父であるマーリンもまた、その楽園に住まう熱帯魚だ。人間がカクレクマノミと分類する(※後に別種、クラウンフィッシュであると訂正された)小柄なオレンジ色の魚。古巣のイソギンチャクの腕の中で平和に暮らしていた。

 

「パパ、今日はなにして遊ぼうか!」
「ううむ、そうさなあ……。かくれんぼなどはどうだ?」
「あはは、昨日もやったじゃん。暖かすぎて脳がふやけちゃった?」
「フフフ、こいつめ、なんてことを言いやがるか」

 

 親子は今日も平和に笑いあう。ニモはマーリンを愛し、マーリンもまたニモを愛していた。お互い、父として、息子として、そして――。

 

 ふと、マーリンは息子の視線を感じた。

 

「どうした、ニモ」

 

 問われてニモは父を凝視していたことに気がついたのだろう、視線をそらすと消え入りそうな声で言った。

 

「パパ、なんだか最近ヘンだよ。いっつも遠いところを見てるような……」


 マーリンは息を呑んだ。思わずエラがひきつる。ニモ、それはおまえの気のせいさ、その一言は泡となって水中にむなしく散った。


「やっぱりパパはこの前のことを」


 うつむいたまま、ニモ。マーリンは自らを落ち着かせるべく一拍置いて応えた。


「そんな……そんなことはない。ニモ、私がおまえを置いてどこかへ行くわけがないだろう」
「本当に本当?」


 なんと馬鹿な親なのだろう、可愛いわが子をこれほど不安に陥らせていたとは。マーリンは自らを恥じた。


「ああ、もちろんだとも、ニモ。約束す……」


 あるいはここでマーリンがよき父親でいることを誓えたとしたら、ニモの世界の平和は保たれたかもしれない。しかし現実は、ニモとマーリン、彼らを彼らの住む世界ごとなすすべなく飲み込む大津波のようなものであったのだ。

 ピィィイイーッ!

 その声は、ニモたちの泳ぐ幾百倍の速度で水中を伝わってきた。


「警告音!」


 マーリンがはっと顔を上げる。途端に周囲がざわめき始める。遊んでいた魚、眠っていた魚、全てが一斉に珊瑚の陰に隠れ始める。


「まさか、また奴らが……」
「パパ、早く逃げよう!」


 ニモは呆然として動かない父を尾びれで押しやった。それでもマーリンは動こうとしない。その時、親子に声をかける魚があった。


「おいマーリン、ニモ! なにしてやがる、とっとと隠れろ!」
「あっドリーさん、今の音はやっぱり!」


 ドリーと呼ばれた青い魚はニモに応えて言った。


「そうだまた人間が来るぞ! 今の声は外洋を泳ぐイルカが知らせてくれたものだろう。早く行くんだ、北の遺跡なら安全だ」
「ドリーさんも、はやく逃げて!」
「ああ。俺のことは心配いらない。それより……マーリン! しっかりしやがれ。ギルの二の舞になりたいか!」


 ギルの名に背びれを震わせ反応するマーリン。


「ギル……あいつは私をかばって人間の……人間の世界に連れて行かれた」
「そうだ、だからおまえは、あいつの犠牲を無駄にしないためにも」
「違う!」


 マーリンは叫んだ。心の底からの悲痛な叫びだった。


「ギルは……最期に言った。『魚が人に屈服するのが世の定めならば、俺はそんな定めなど否定してみせる』と」
「マーリン!」
「私は……私はただ人間の影に怯え、ギルが連れ去られる瞬間にすら目を閉じていた。これでは私は、ただの魚ではないか! 定め? 違う、私は魚という殻に閉じ込められ、海という檻の中で震えていただけだ!」
「ちょっ、マー……リン?」
「人間は地上を席巻し、海洋にまで進出してきた。彼らの限界は我らのそれよりも高いところにあるのか?! ならばそれをさらに超えようとしたギルこそが……!」


 あまりのマーリンの興奮ぶりに、ドリーは逆に冷静さを取り戻して言った。


「いいから。ニモ連れて逃げなさいよ」

 

 #  #  #


「大丈夫……パパ?」
「……すまない。取り乱した」


 マーリン親子は北の遺跡と呼ばれる岩礁にやって来ていた。

 彼ら熱帯魚が滅多にひれをはためかせない場所である。陽の光は珊瑚礁同様に眩しいが、しかしこの場所ではそれが余計に闇を濃く見せていた。


「ここまで来ればもう安心だ。この遺跡は人間に見つかっていないからな」


 海底に立ち並ぶ石柱。ニモとマーリンはその陰に身を落ち着けた。


「なんだか不気味な場所だね」


 不安な様子を隠さず、ニモ。

 マーリンは努めて明るく振る舞った。


「ここは大昔、人間が住んでいた都だったそうだ」
「えっ。じゃあ人間は昔海の中にも住んでいたの」
「いや、この都は陸の上にあったそうだ。何らかの災害で一夜にして没し、いまこうして眠っているらしい」
「ふうん。人間も万能じゃないんだね」


 万能ではない。そうだ、当然のことだ。しかし今、人間どもは本来生きていけない水の中にまで活動範囲を広げている。奴らは自らの限界を無視している。ならば私も私の限界、カクレクマノミの限界を捨て去ればいいのだ。


 しかし。


「まだ帰っちゃだめかなあ……ノリスもチャックも捕まってなければいいけど……」


 怯える小さなニモの姿が、マーリンを強烈に現実に繋ぎとめた。私は何を考えているのだろう、本当に守るべきものを放り出そうとしてまで。


「――帰ろう、ニモ」
「パパ」
「もう人間どもも去ったことだろう。住み慣れたイソギンチャクに帰って、ずっと一緒に暮らそう」


 ニモの表情が一気に明るくなった。


「――うん!」


 息子の笑顔を見て、マーリンは何故か胸の奥が疼くのを感じた。いや、違う。自分は正しい判断を下したのだ。これ以上の選択は存在しないはずだ。


「家に帰ったら、かくれんぼしよう、パパ!」
「昨日やったじゃないか、ボケるには億年早いぞ、ニモ」


 親子はいつものように笑いあう。これでいい。これで。


「よーっし、じゃあ僕、かくれんぼの練習するよ!」


 無邪気にはしゃぎ、石柱の間を泳ぎまわるニモ。それを目で追いながら――


「なんだ、あれは……」


 マーリンは異常に気づいた。
 石柱の一本が不意に光を放ちはじめ、やがて収束し始めた光が意思あるものの腕のようにニモに向かって伸び始めた。


「ニモーっ! 後ろだー!」


 マーリンは尾びれが千切れんばかりの速度で泳いだ。光の腕がニモを捉える瞬間、渾身の力でニモを弾き飛ばし、代わりに光の中へ飛び込んだ。


「うっ……おおおおおおお!」
「パ、パパ?!


 ニモは混乱の最中、必死に父を助けようと試みた。しかし光に完全に阻まれ、マーリンに触れることすらかなわない。


 刹那、マーリンは理解した。この水没した都は、まだ死んでいなかった。そして災害によって沈んだわけではなく、かつての人間は望んで水中へ進出したのだ と。この光は人間の身体を水中に適応させるための魔法のような技術であると。マーリンは光によってそれらの知識を瞬時に得たのだった。


「パパ、僕が調子に乗ってはしゃいだりしたから……ごめんなさい、ごめんなさいパパ! 帰ろう、早く帰ろうよ家へ! ねえパパ!」


 泣き叫ぶニモ。しかしそんな様子を目の当たりにしても、マーリンの心は不思議と痛まなかった。


「泣くなニモ。私はいま、とてもいい気持ちだ」


 生まれ変わるような、すがすがしい気分。今なら、行ける。地上だろうが、人間の世界だろうが。そして超えられる。全て超えてみせる……。


「すまんな……私は、私は魚類をやめるぞニモォオ!」
「パパ、パパーっ!」


 そしてマーリンを包む光が爆発した。太陽が海に落ちてきたようだった。

 ニモはくるくると吹き飛ばされた。意識を失う瞬間、空へと駆け上っていく一条のオレンジ色の輝きを見た気がした。

 

(おわり)
 

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